万年筆


 ある時ふと、万年筆に興味を持った。





 速鳥の祖父祖母は他界していて既におらず,その家も今は建て替えられていて親戚が住んでいる。
つまり祖父の時代のものは一つも残っていない。



 若いうちはそのことに対して何も感じなかったが、年を経るに従って非常に惜しいことをと思うようになった。
「新しいもの」はすぐにできる。しかし「古いもの」は時を経ないと手に入らないからだ。
そしてその「時」は、金を積んでどうにかなるものではない。
骨董品が価値を持つということをようやく理解するに至ったわけだ。



 そして今、うちには歴史を経てきたものが何もない。
祖父の家も、そこにあった古い振り子時計も、納戸も、市松人形も、小さな作業小屋も。
当時は当たり前にあったそれらは、いまはかけらも残っていない。
どうあがいて手に入るものではない。



 が。感傷に浸るまもなく考えた。
古い物がないなら今から作ろう。今ある物も速鳥が死ぬ頃には、十分な骨董品になるんじゃないか。
そんな安易な考えで、万年筆に手を出したのだ。
“万年筆 = 万年使える品”という考えも安易だ。



 とはいえ、万年筆は高い。一本が一万円を超えるのはざらだ。蒔絵なんか入った日には、もう一桁跳ね上がる。
あれこれと見て回って手に入れたのが、プラチナの万年筆。
この値段でペン先が14金というかなりコストパフォーマンスの良い製品だ。



http://www.rakuten.co.jp/buneido/445435/453617/704784/



メーカーではすでに製造中止らしく、公式サイトにも載っていない。
ネットショップでもすでに売り切れ。見越して予備にもう一本購入していて良かった。





 始めて万年筆に触れた速鳥だが、「すらすら書ける」とはこういうことなのかと実感した。
その後、店頭などで入門用のとされる万年筆をいくつか触ってみたが、
このプラチナの万年筆ほどに満足する書き味の製品にはお目にかかったことがない。
それくらいお気に入りだ。
もちろん、「店頭で触れられる程度」の万年筆と比べての話だが。



 PC全盛のこの世の中で筆記用具を手にすることは少なくなりつつあるが、
この万年筆を使い、そして次の世代に託そうと今から画策している速鳥であった。